ベランダに椅子を導入したい

2018目標みたいなものを読み直していたが、あの時点の私は、今の私より遥かに精神が健康なようで、眩しく感じられるな。

 


とかいう文章を書いたの数日前のことで、今の私は精神も健康にベランダで夜風に当たっている。エアコンよりも、外の方が涼しい季節になってきた。
虫が鳴いていて、室外機の音と、どこから聞こえるのかよくわからない耳鳴りのような音が聞こえる。

こういう瞬間にこそ、私はなんだってできるしなんでも選べる気がする。この歳で毎晩非行少年気分です、やばいな。好きにするけど。
これは世界への呪詛だが、いつだって「選択しないこと」で「消極的に肯定」する人間が嫌いで仕方がない。
それはおそらく何かの選択を先延ばしにし、ぽしゃることを待つ責任逃れをする私が嫌いであることと、「選択すること」をする私の強さと辛さが否定されるようで、殲滅したくなるんだろう。

文章を吐き出すことは、やはり性に合っているようで、会話のように理解を得られるように努めることが嫌いらしい。好き勝手ぐだぐだ呟いて、わかる人だけ反応するようなTwitterは居心地が良かったんだろう。
つい廃なのは否めない。
そしてこのひとり壁打ち大会が性格を歪めている。

「削る」ということは私のライフワークのようで、書いた文章も、意図も、精神も、時間も手間も何もかも削りたくなる。
そこに合理性はなく、私の好悪で削るため、精神的自傷となってしまうのが難点だな。
私の起源は「削る」ということにしておこう。

 

削ることと、夜を更かすことは、どうにも、いつまで経っても、やめることができない。
その日に満足できていないから、と言われるけど、その日に満足するという感覚がわからないので、一度も満足したことがないのかもしれない。
夜は人がいないので、一番穏やかな時間とも言えるから、その時間に生きたいと思うのも、当然じゃないのかな。
とか言い訳を並べるわけですが。

 

 

 

やることもないので、とりとめもなく、雑な所感を述べてみた。
やることはなくても、何故だか寝たくない。
理由はなくても、何故かつらい、何故か悲しい、何故か嫌だ、何故か明日へ進みたくない。

何故、とか、思っているけど、
やはり私は、先を拒否しているんだろうな。
わからないふりをしている、いきていたいので。


これだけ書いても、精神が穏やかに凪いでいる。いい日だな。